ウズベキスタン



 
 

青の都:ウズベキスタン旅行記

                                    青木

1.中央アジアのオアシス

 アジアは近くて遠い、というより私の中央アジアの歴史認識が足りなかったのかもしれない。キジルクム砂漠やカラクム砂漠といった砂漠地帯を紀元前にはアレクサンダー大王が遠征し、紀元後はチンギスハーンに攻略されてモンゴル帝国になり、やがてハーン王国陥落後は帝政ロシアの支配下に入り、帝政ロシア崩壊後はソ連によって社会主義共和国になり、ソ連崩壊によって1991年に独立を勝ち取り、ウズベキスタン共和国になったといった程度の認識しかなかった。広大な砂漠・土漠地帯に馬を馳せる覇者の姿を想像するほどに、中央アジアの色は、世界地図の色と同様、土色だったのである。ウズベキスタンは、日本の国土の1.2倍、人口2930万人である。イスラム教(スンニ派)90%、ロシア正教、その他が各5%で、政教が分離されている、歴史ある若い国である。

(1)  多様な文化融合のシルクロードの道

ウズベキスタン航空の予定の飛行機が飛ばないと分かったのは前日の夕方、急遽、大韓航空706便の仁川空港経由、941便でタシケントまで行くことになった。早朝の出発便になったのだが、仲間は全員、何らかの交通手段で時間に間に合うように集合した。さすが遊び人たちである。

到着も予定より遅れ、首都のタシケント空港からレストラン「AL AZIZ」に直行、軽食を摂ってシティパレス・ホテルに到着してトランクから寝具を出すと23時を過ぎていた。翌朝、早いのですぐに就寝。早朝「アッサラーム・アライ・クム」「アッサラーム」と挨拶が交わされる。朝6時半朝食といってもまだ朝食の準備が整っておらず、パンとジュースを飲んでから710分、タシケント駅へ出発する。3年前から特急が通ったとのことだが、あいにくこの日は急行に変わっていて、2時間の乗車予定が40分遅れでサマルカンドに到着する。

サマルカンドは、「青の都」「東方の真珠」と言われるシルクロードの中心都市として栄えた町で、ティムール朝時代、富と栄華を極め、その孫のウズベクは世界古典科学者の10指に数えられる天文学者である。ウズベク天文台には、彼の発明した天文学に関係する機器や文献が展示され、6分儀の実物は、カミオカンデを想像させた。1年間に1分の誤差という時間計測もデジタルに慣れてしまった人間の小ささを思い知らされた。ティムールとその家族を祀ったグル・エミール廟や再建された神学校前のレギスタン広場と3つの神学校群、シャーヒ・ズインダ廟は、まさに青の都の象徴である。チンギスハーン来襲で破壊された旧サマルカンドのアフラシャブの丘は、車で通過しただけだが、今も残る旧市街の再建中の廟は、10年後の復興を予想させるものだった。

サマルカンドの3つの神学校    ヒヴァ城塞都市の哲学者像     ワイナリーの試飲

その夜、ワイナリーで10種のワインを味わいながら、正倉院からワイングラスが発見されていること、当時の日本では古代ペルシャとの交易があったこと、薬酒としてのワインの源流がグルジアやアルメニアなど西アジアにあり、シルクロードを通って日本に伝来したであろうことなど、古代史を塗り替える新情報に当時の人々の生きた世界の広さ、大きさを考えさせられた。アレクサンダーはなぜ東方遠征に出たのか、ティムールはなぜトルコまで領土を拡大したのか、まだ見ぬ地への好奇心がそうさせたのであろうか。今日も領土拡大を図る世界の国々の争いは続いている。その争乱の中で、文化の破壊と再創造がなされ、市民は平和を願い、かつての遺跡を復興し、歴史を直視して新しい国を築こうとしている。

(2) 食糧自給率100%の国

 急行電車に揺られながら見る車窓の景色は、緑一色、綿畑、トウモロコシ畑、果樹畑と延々と続く広大な土地に様々なものが栽培されていた。食糧自給率100%の国の強みである。オアシスに広がる水辺一帯は豊富な水源があり、中央アジアは砂漠と高原地帯という私の浅い歴史認識を変えてくれた。確かに、サマルカンド行きの電車が終点に近づくと砂漠の山が両側に広がってはいたが、地面より高い水路が張り巡らされて緑地と農業を支えていた。発展途上国の食料自給率が高い国はスロウ・ライフだが、そこには確かな家族の絆と地域社会の結びつきがあり、労働を厭わぬ堅実性がある。今、ウズベキスタンも観光立国を目指してかつての歴史に光りを当てている。ティムールの故郷シャフリサーブスの建築群は、後100年かけないと歴史としての価値を生みだせないのでないかと感ずるような復古で、新建築群の中にかつての栄華を彷彿とさせる城門だけが歴史を留めていた。時代に合わせて栽培物は変わっても、農業は人々の身体に歴史を残す。しかし、建物ははかない。人々の身体に残る歴史が、砂漠をもつ国に高い食糧自給率を生み出しているのであろう。

 

2.教育制度とマハッラ

 シャフリサーブスの建築群を見てからブハラに行く予定が、道路が工事中で通れないということでサマルカンド経由、ブハラと遠回りのバス旅になった。朝7時半出発、途中でかつてソ連のコルホーズで働いたという11人の子どもを育て今なお現役で民芸品を作り売るおばあさんの家でトイレを借り、砂漠の中の小さな町で昼食を摂り、夜8時過ぎに到着というブハラまでの13時間540キロの道のりである。高速道路といってもがたがたする道もあればなめらかな道もあるが、この時間は勉強するには絶好の時間である。二つの内容について記録しておきたい。

(1) 教育制度

 教育制度の大きな変化は、1924-1927年のソ連支配によるウズベク・ソビエト社会主義共和国になったときと、第2次世界大戦が終結後の1947年からの学制、そして1991年独立後の教育制度である。ソ連憲法が適用された当時は、金品は没収され、コルホーズ、ソホーズに配属されて働くノルマが決められ、ロシア正教に宗旨替えされ、ロシア語が母語として取り扱われるという厳しさがあった。もちろん、ソ連の識字率99.9%の施策によって教育を受けることはできたが、ラテン語からキリル語に、ウズベク語からロシア語、アラビア語にと変わる言語についていけない人々を輩出した。文字を変え、言語を変えて話せない人々をシベリアに抑留し、コルホーズでしか働けない環境に置いた。それによってカルマクス、レーニン、エンゲルスらは強制労働者には賃金は不要という論理を構築したという。小中10年、専門学校2年、大学4年で、高学歴の者が内心は批判心を持ちつつも、反対できない政治体制の中で支配者層となっていったのである。

 1947年、学制が4534制に変わり今日に引き継がれている。7歳からの就学で、小学校4年、中学5年、高校3年までの12年間が義務教育、大学4年、大学院2年である。幼稚園や保育所は義務教育ではない。成績優秀者には国が奨学金を出すが、そうでなければ親が出すか学制が働きながら学ぶか、あるいは進学を諦めるかである。国費奨学生の割合は、学部によっても異なるが、国費奨学生の割合は高い。未来への投資をまずは国の担い手からというところであろう。大学院2年マスター取得以上が大学で働けるのは日本も同じであろう。2010年の政府発表では識字率100%である。成績試験が81日、91日は独立記念日(今年は建国25周年)92日から525日が学校授業期間で、夏休みは3ヶ月ある。

 成田空港でも日本語の勉強に来て子どもの誕生日なので里帰りするという青年に出会い、インチョンからタシケントまでの飛行機で横の席になったカン・ゴクトリアさんとも日本の学生の話で湧いた。彼女は、日本の奨学生として、一橋大学経済学部で学び、後期課程単位取得後一橋大学経済研究所研究機関研究員、同大学院経済学研究科科学研究費技術員、東京女子大学現代教養学部国際社会学科非常勤講師、帝京大学経済学部経済学科専任講師に至った経歴をもつ。ウズベキスタンの若者が、世界に学ぼうという意識の強さは、国の価値の大変革もさることながら、新国家を支え、発展させ、未来を切り開く希望に根ざしている。最終日に、タシケントで幼稚園の先生方と対話した際も、幼稚園・小学校を経営しているマトリューバさんは300キロ先から駆けつけてくださるという、意欲的な教師集団だった。ジャイカの関係で日本に来たことがあるという親しさもあろうが、ウズベキスタンの初等教育を充実させるために日本に学びたいという強い思いをもっていた。タシケントの公立園のサイヨラ園長、セーグリー教諭も、持論をしっかりもっていて、日本の135人では多くないか、日本からなぜ来たのかといった質問がなされた。

 ウズベキスタンの就学前教育は、女性の置かれた立場と関係している。女性は20歳過ぎると結婚し「元気なお母さんから元気な子どもが生まれる」として母性保健も徹底している。25歳を過ぎる結婚機会が減少するのも、そのためである。男性も2324歳で結婚する人が多く、子どもは大切にされるという背景がある。

育児休暇が1年半、育休は母乳育児を大事にし“母乳から愛国心が生まれる”として女性がとる場合が多い。この間、予防注射や教育、医療、諸検査等、看護士が家に来て指導・支援に当たる。国の独立した翌年1992年には国連加盟し先進国水準を目指している。田舎には幼稚園が少ないが、子どもは家の手伝いをしているので強い。牛や羊の放牧、農業の手伝いなど兄弟で助け合い苦労して大人になっていく。兄姉が4歳になったら弟妹を見てくれるので、子どもが多いことがプラスに作用しているという。

都市部では3歳から幼稚園が始まる。2人以上だと保育料の割引があり、年間70ドル程度である。小学校に行くまでに23カ国語は学ぶプログラムが多い。現在は公用のウズベキ語が基本だが、ロシア語は将来の仕事につながることと、ソ連時代ロシア語が強制されロシア語を学んだ人々も多く、世代間で言葉が違うためである(ウズベキ語74.3%、ロシア語14.2%、タジク語4.4%、その他7.1%)

学歴も労働歴も年金に加算される。それだけ教育に力を入れて国家建設、文化の振興を目指しているといえよう。

 

タシケント:対話会場のレストラン前の幼稚園  ヒヴア:城塞都市とホテル間にあった幼稚園

木立の中に遊具空間がある。反対側にも広い庭があり、タシケントにはプール付きの幼稚園もあるという。ヒヴァの幼稚園にも畑があり、相当数の幼児を収容している2階建ての建物が奥まで続いていた。

夏休みだったこともあり、見学はできなかったが、遊びの位置づけは日本と異なりイベント中心で、学習の場として幼稚園から大学までの一環教育を目指している場所という位置づけであろうことが伺えた。

 (2) 教育制度その2:マッハラ

 イスラムの国には喜捨やマッハラという相互扶助の組織がある。ウズベキスタンのマッハラは、地区の人々が助け合い、困っている家族のために良いことをする、良いことを行うことが自分の幸せと感じるものである。日本でいえば、結いのような、自治会のような、しかし、その成立過程も根本的な思想も異なっている制度である。

マッハラの人々は、朝6時起床すると水まきをし、ゴミ清掃をするといった生活に密着した共同作業から、仕事の斡旋、イベントの実施、離婚やアルコール中毒者への支援、結いや喜捨、課外授業(カルチャーのこと)に始まり諸々の相談ごと、パスポートなどの人物証明なども行う。40軒から60軒を単位とした政府の下部組織で、強制ではないが、末端の一人にまで情報や支援が行き届くようなものである。かつては、自然発生的、住民の自発的なものであったが、ソ連邦時代、マッハラの組織を活用して社会主義思想の普及が行われ、労働や裁判などの二次的役割を課した歴史がある。社会主義国家から共和国になった現在も、ソ連邦時代の色合いを残し、政府の一機関として財政的な援助がなされ、政府の情報を下部に周知する機能としても使われているが、一方でマッハラに所属しない人々も生み出している。

ティームル・ダダバエフは、本来のマッハラはコミュニティの中心人物である長老による教育活動と、月12回程度の食事会とおしゃべりといった住民間の交流、家の建て替えや冠婚葬祭といった相互扶助に意味があったとする。特に教育活動は、道徳的規範の維持において親や祖父母、親戚等の拡大家族が果たす役割が大きいように、マッハラも拡大家族の一つとしてその役割を担っていたとする。ソ連時代にソビエト的考えや二次的役割からマッハラへの関心を失った人々、あるいはマッハラを知らないソ連人などもおり、その教育機能は崩壊したとする。彼は独立後、準行政機関となることで、財政的支援は受けられるがマッハラに対する人々の信頼と期待は裏切られたとする(ティムール・ダダハエフ『社会主義後のウズベキスタン』アジア経済研究所、2008)。コミュニティをつなぐ難しさは、自発性を伴うものか組織として与えられるものかの違いで、これは日本のコミュニティ崩壊から今日新たなコミュニティ再生へと模索する私たちに大きな示唆を与えてくれる。

3.世界とつながる産業の未来

翌日は朝、ゆっくりしてから世界遺産ブハラの町を見学、ホテル前で厄除けの煙を浴びて出発。鍛冶屋で挟を買う。ウルグベク・メドレセ、ミル・アラブ・メドレセ、カラーン・ミナレットからカラーンモスクを見学した後、テラスのあるお茶屋さんで一服。アルク城はまさに歩くのみ。バザールを見学後、イスマイル・サマニ廟を見て噴水のるレストランで昼食を摂り、刺繍工房へ。その後散策してアジアブハラホテルへ戻る。ホテルのプールで泳ごうと思ったが、深夜までプールで宴をする人々がいて諦める。夜はメドレセで民族舞踊を見ながらの夕食である。町が世界遺産だけに、見所がたくさんありすぎて印象に残りにくい。ソ連時代のバッチなどが売られる町には、いまだ色濃く当時の記憶が残されている。

次の日の早朝、友と町を散策し運河や遺跡の発掘現場、噴水のあるレストランや人形劇場、朝の町の人々の動きなど見学する。町は自分の足で確認しないかぎり、意識に残らない。前日見たメドレセのおさらいができた。また子どもたちが早朝、自転車などで遊ぶのも、日中の暑さ対策のようである。

8時半出発、今日はひたすらキジルクム土漠・砂漠地帯をバスで480キロ走り抜けヒヴァに向かう1日である。牧場や農地が消えると、もっぱら土色の風景が続く。時折ラクダ草が生えているところもあるが、ほとんど乾燥した砂漠地帯である。砂漠の一角にある串焼きのレストランで昼食後、またひたすら走る。砂漠の中に大きな土管が埋められているのが見える。これが、中国がウズベキスタン政府から土地を借り、中国まで天然ガスを引いているガス管だという。砂漠一帯に引くガス管の膨大さは気が遠くなるようだが、中国のエネルギー獲得競争のすごさを思わせる。

 ウズベキスタンは、世界でも有力な天然資源の保有国である。各種の鉱床と鉱脈は2700を越え、鉱物の種類は100種に及ぶとされる。石油や天然ガス、ガスコンデンセートなどの有力な資源は160カ所以上、貴金属鉱床が40カ所以上、非鉄金属・希少金属、放射性金属で40カ所、鉱物塩鉱床が15カ所、金の埋蔵量は世界4位、採掘量で世界7位、銅の埋蔵量世界10位、ウラン12(荻野矢慶記『ウズベキスタンガイド』彩流社、2016)、ルーマニアで見た石油掘削機は見られなかったが、これだけの資源をもつとなれば国民の未来への希望も大きいといえよう。しかし、資源国は強国にその資源を売るだけになりやすい。資源を生かす術をもたないかぎり、資源の枯渇が経済の衰退を招きかねない。そこに、従来の奴隷化した植民地や先進国と途上国との関係構造がちらりと垣間見えるのである。

4.平和への知恵

1日のバス旅は5時にヒヴァに着いて解放される。その夜はMIRAZABOSHIレストランで夕食となる。城内のレストランで観光客も多い。食事まで時間があったのでプールで一泳ぎして疲れを取る。翌朝、城塞都市の南門から東門に出て、城塞の中央を横切って西門まで散策する。すでに人々は市場を開く準備に追われ、活気に満ちていた。朝食後、再び40度の中を城塞都市の見学となる。西門より内城に入り出店が並ぶ通路で、まずは帽子屋で羊の毛の帽子を見学、暑い真夏に羊の毛の帽子と思うが、土産物に季節は関係ないのだろう。いくつかのメドレセやミナレットを見たが、印象に残ったのはジュマ・モスクとタシュ・ハウリ宮殿の展望台である。ジュマ・モスクは中央アジアで最も古く、178889年建設と刻まれている。しかし、それより古い10世紀から11世紀にホラズムの都から持ち込まれた柱が4本あり、全部で212本の彫刻された柱には天窓から差し込む光が陰影を刻んでいる。こうした遺産自体が現在の平和を語るわけだが、様々なところに平和の礎が埋め込まれている。

マッハラが最大の道徳・平和の伝承場所であるが、そこで語られる諺や物語が、日常の会話として再生される。口承伝達の人生訓として伝えられてきただけではなかろう。体制が変化するたび、体制批判ができない人々が、熊をロシアに見立てライオンをウズベクに見立てたり、物語に知恵を埋め込んだりして語りつないできたものと思われる。ガイドのトルキンさんの話も、こうした諺や物語を通して、直裁には言えない批判や疑問を伝えていた。それは笑いを誘い、心に納得を呼びかける。

暑さ対策のためだけではない日々の清潔も、お茶やおしゃべりも平和の一つの手段で、心を落ち着かせる。納得を創り出す。最終日、タシケントの日本人墓地に行った。シベリアに抑留され厳寒の地で労役につき亡くなった日本人を弔っている。もちろん、ドイツ人などの墓地もある。ソ連時代、撤去するよう指示されたが市民は亡くなった人々を弔うことは神の意志として、そのまま残したという。国立オペラ劇場にも、労役として建設に関わった日本人の銘が記してあった。1966年の大地震でここだけ倒壊しなかったのは日本人の技術の高さの賜として、今でも人々の記憶に留められているのである。

ロシアの影響を受けず国連の法に基づいて作成された憲法には、人権尊重、宗教の自由、平等を謳い、自国の独立、自立のための教育等の内容も掲載されている。憲法の日として、それを自覚する市民がいての平和であり、人権であろう。近隣の国々はいまだ戦乱状態にあるのに、ウズベキスタンには泥棒はいないというほどに安定した国である。とはいえ、地下鉄に乗るにも、荷物検査を受け、ホームでガイドの説明を聞いている間も警視される。ウルゲンチ空港ではロシアの影響下が残っており、兵隊も多い。写真は撮らないようにという気配りである。また翌日の出国審査では、まずは狭い1カ所の入り口でパスポートと荷物の検閲を受け、チケットを出してもらうと荷物検査があり、税関で再度荷物検査、税関を通り過ぎると検査、最終的に搭乗に当たって検査と5回も検査があった。これも平和への知恵なのかなと思い至ったのは、ウズベキスタンに到着した夜、バリケード沿いに空港を1周したのではないかと思うほどたいへんな遠回りをしてゲートに着いたこと、ウズベキスタン航空が飛ばない理由は飛行機機材の調達不可能のためということであったがトルキンさんが、飛行機が飛ばないのは戦争を避ける一つの方法と笑っていた言葉に冗談ではない真実も含んでいたこと、若者たちが一緒に写真を撮ってほしいというほど親密を示すかと思うと、対立的な目より伏せ目にして通行する人々の多いことなどである。

平和は、言葉や振る舞い、道徳、生活様式、あるいは法の自覚といった日常にある。躾は3歳では遅いと言われ、親がモデルとなって身につけさせていく。喧嘩をしない、たばこを吸わない、ルールを守る、身だしなみを整える、音を出して食べない、目上の人の接し方から夫婦のあり方まで、親の教育力が問われる。そこに国民が共有する文化があり、日本の海外渡航情報では危険度1レベルだが、衝突の危機を避けるスロウ・ライフと市民の自覚があるといえよう。

 最終日、タシケント市内を見学後、ホテルに戻って休息し風呂に入り、PILGRIMレストランで夕食を摂ってタシケント空港に行く。もちろん、ウズベキスタン航空ではなく対韓航空である。仁川での出発が1時間遅れ、日本に到着したのは当初予定より3時間遅れの1時半。これも平和のためと思えば、急ぐことはない。